2009年06月16日

花粉症は、水のようなサラサラした鼻水と目のかゆみが

花粉症は、水のようなサラサラした鼻水と目のかゆみが特徴的であり、感染症である鼻風邪との鑑別点になる。鼻風邪であれば、一般的には目のかゆみはなく、数日のうちに鼻水は粘性の高いものになり、さらに黄色や緑など色のついたものとなる。また、屋外のほうが花粉が多いため、おのずと症状も強くなるという点も風邪との違いである。
他のアレルギー
非常に似通った症状ではあるが、屋内のほうが症状が強い場合、ほこりなどのハウスダスト等によるアレルギー性鼻炎を疑ったほうがよい(一般に「アレルギー性鼻炎」と言った場合、こうしたハウスダスト等による通年のアレルギー性鼻炎のことを指すことが多い)。外部リンク:アレルギー性鼻炎の分類と判断基準も参照のこと。
スギ花粉飛散の前から症状を呈する患者も多くいるが、実際にごく微量の花粉に反応している場合だけでなく、季節特有の乾燥や冷気によるものもあると考えられている。患者は自己診断に頼らず、専門家の診断を受けることが望ましい。
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その他の特徴 [編集]
症状には個人差がある
患者により、くしゃみや鼻水がひどいタイプと、鼻詰まりがひどいタイプ、両方ともひどいタイプなどに分けられる。症状の程度も個人により異なる。そうした症状のタイプと重症度により、適した治療(薬剤)なども異なってくる。目の症状の重症度などによっても治療法は異なる。これらの重症度などはくしゃみの頻度などを花粉症日記に記録してスコア化することによって調べることができる。同じ花粉飛散量であっても症状の程度が異なるほか、どの程度の花粉で症状が出るかの敏感さも個人によって異なる。
花粉飛散量と症状は相関しない
花粉飛散量が2倍になったからといって、症状も2倍ひどくなるわけではない。簡単には、飛散量が1桁上がると症状は1段階ひどくなると思って大きな間違いではない。多量の花粉に曝露されると症状も悪化するが、少量であっても連続すると重症化していくのも特徴である。また、いったん最重症化すると、少々の花粉量の変化では症状は変化しなくなる傾向があり、花粉飛散期が終了しても、症状はなかなか改善しない。
モーニングアタックを起こすことがある
目覚めのときに強く症状が出ることもあり、俗にモーニングアタックといわれる。就寝中に吸い込んだ花粉が目覚めとともに症状を引き起こしたり、自律神経の切り替えがスムーズにいかないのが、鼻粘膜における高まった過敏性とあいまって症状が出ると考えられている。緊張すると症状がおさまる、リラックスすると症状が出てくるなどのことも、自律神経のバランスの具合によって説明されている。リラックス時や就寝時には副交感神経が優位となるが、その場合に症状が出やすいという。
なお、自律神経の影響を強く受ける、すなわち鼻における自律神経失調症ともいうべき症状は血管運動性鼻炎といい、一般に気温差などにより鼻水が多く出るのが特徴である。雨の日なのに症状がひどい場合、花粉症にこれが合併していると考えることもある。
遅発相と呼ばれる症状もある
6 - 10時間程度遅れて出てくる症状を遅発相という。花粉がないはずの室内で、就寝前などに強い鼻詰まりに悩まされる場合などがこれにあたると考えられている。空気清浄機等を使用しても症状の改善がない場合は、これであるかもしれない。

2009年05月30日

太政大臣

太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は律令制において、左大臣・右大臣の上に位置する、太政官における最高位の官職である。和訓は「おおまつりごとのまえつぎみ」。唐名は相国(しょうこく)、大丞相(だいじょうしょう)、太師。

特に職掌はなく、天子の師(「師範一人」)たりうる者が任ぜられたので、常設はされず、適任者がいる時のみ叙任された。そのため、「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれた(「闕」は「欠」の意)。また、弾正台による弾奏(非違行為に対する告発)の対象から唯一除外されていた。正従一位相当官。

天智朝の大友皇子(671年)を最初とし、明治時代の三条実美(1871年 - 1885年在任)を最後に廃止される。

律令制初期においては軽々しく任命する事の出来ない役職であるとして、代わりに皇族のみが任じられる同格の「知太政官事(ちだじょうかんじ)」が設置されていた。こうした事情より、太政大臣に代わって左大臣が太政官を統括する慣例が生じたが、後には臣下の者が太政大臣に任命されるようになり、藤原良房及び基経が太政大臣と摂政を兼ねると、太政大臣と摂政の職掌の違いは何か、あるいは太政大臣と左大臣が並存する場合にはどちらが太政官を統括するかで混乱が生じた。そこで、元慶8年5月9日(884年6月5日)、光孝天皇は菅原道真・大蔵善行ら学者らを召して太政大臣の権限について意見を出させた。その結果、太政大臣は、あくまでも天皇の師範として有徳の功労者が任命される職であって政治的権力を有さず、太政官の公事には関与しないこととされた(ただし、摂政・関白を兼ねる場合にはその権限に由来する政治的権限を持つことになる)。(『日本三代実録』)

藤原北家の勢力が伸びるにつれて、藤原良房(857年 - 872年在任)以降、源雅実(1122年 - 1124年在任)まで250年の間、藤原氏に独占され続けた。
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平安末期以後、原則的に五摂家・九清華の者のみが務める資格を持ったが、江戸期には摂関経験者だけが太政大臣に任じられたようである。

武家出身の太政大臣は、平清盛・足利義満・豊臣秀吉・徳川家康・徳川秀忠・徳川家斉の6例。

生前の叙任が少ない太政大臣は、死後の贈官として、摂関、天皇の外祖父、江戸時代の将軍などに贈られることがある。こうした生前の功績に対して、没後に太政大臣官職を贈られた場合には、「贈太政大臣」となる。また織田信長のように事実上の執権者が叙任を受けずに死亡したことを鑑みて、後世(大正時代)に改めて追贈された例もある(正確には、死の直後に従一位太政大臣が贈位され、大正時代に正一位が改めて贈られた)。

2009年04月27日

ポーランドの計画

ポーランドの防衛計画、暗号名「西方 (Zachód)」はポーランド・ドイツ国境に直接に兵力を展開するという内容である。これはポーランドが他国から侵略を受けた際にイギリスがポーランドに対し軍事的援助を行うという約束を元に立てられた計画である。さらに、ポーランドにとって最も価値のある天然資源、産業、そして人口の多い地域が西部国境付近(シレジア地方)に集中しているため、ポーランドの政策はこれらの地域を防衛することを主眼としていた。特にポーランドの多くの政治家には、ドイツが論争の種にしている地方(たとえば、いわゆる「ダンチヒか戦争か」の最後通牒の原因となったポーランド回廊など)からポーランド軍が撤退した場合、イギリスやフランスはドイツと1938年のミュンヘン協定と同様の新たな平和条約を締結してしまうのではないかという危惧があった。これらの国のどれも、ポーランドの国境と領土を完全には保証していなかった。ポーランドはこれらの前提に立って、川幅の広い自然の要衝であるヴィスワ川とサン川の後方に自軍の大部分を展開すべきだというフランスの助言を無視した。ポーランドの将軍の幾人かはこのフランスの助言をより有効な戦略だとして支持を主張していたが、それは受け入れられなかった。西方 (Zachód) 計画はポーランド陸軍を自国領の奥深くに撤退する余地を与えたが、撤退は川(ナレフ川、ヴィスワ川、サン川)の付近に準備された場所から後方へとゆっくりと行われなければならなかった。うまくいけばこれによってポーランドは軍の動員完了までの時間稼ぎをし、「西側同盟諸国」が約束どおりの攻勢をかけた時に自軍も大規模な「反転攻勢」にかけられるはずであった。

ポーランド軍にとって最も悲観的なケースとなる「退却戦計画」は、サン川の後方から自国領の東南部地方への撤退と、時間稼ぎの長い防戦(ルーマニア橋頭堡作戦)を含むものであった。イギリスとフランスは両国が戦争に介入した場合でもポーランド軍はせいぜい2ヵ月から3ヵ月の間しかこの東南部の地域で防戦することができないと考えていたが、ポーランドはその場合には自軍は6ヵ月持ちこたえられると判断していた。このポーランドの計画は、同盟国がポーランドと結んだ相互援助条約を遵守してすみやかにドイツに対し攻勢をかけることを前提としていた。しかし、実際にドイツのポーランド侵攻作戦が行われている間、フランスもポーランドもドイツを攻撃する計画を立てていなかった。両国の計画は先の大戦での経験に基づいており、両国は塹壕戦によってドイツの力を弱めることができると考えており、その結果としてドイツに平和条約を結ばせ、ポーランドの独立を回復できると期待していた。しかしポーランド政府はこの両国の計画について知らされておらず、ポーランドの全ての防衛計画は西側同盟諸国の迅速な救援行動への期待の上に立てられていたのである。

結果として、国境を広く防衛するというポーランドの計画はポーランド敗北の主因となった。ドイツによるポーランド侵攻の間、ポーランド軍は非常に広大な国境線に薄く引き伸ばされて配置され、コンパクトな防衛線と有利な防衛配置をとることができず、 補給線も充分守られずに、しばしば機械化されたドイツ軍に包囲される結果となってしまった。ポーランド軍のおよそ3分の1はポーランド回廊とその周辺(ポーランド西北部)に重点配備されたが、彼らは東プロイセンと西方からの敵により孤立させられ、さらに挟撃の危険に晒された。南部では、進撃するドイツ軍の主要進撃路に対し、ポーランド軍は薄く広く配置されていた。同時に、ポーランド軍の別のほぼ3分の1は前線から離れ、エドヴァルト・ルィツ=シミグウィ元帥の指揮下に集結したまま国土の中北部、ウッチ市とワルシャワ市の間に残されていた。前方に集結したポーランドの部隊は大部分が敵の動きに遅れをとり、戦う機会を失ってしまった。ドイツ軍と違い、動員途中で装備の整っていなかったポーランド兵の多くは徒歩で移動せざるをえず、後方の防衛線まで移動することができず、侵略者の機械化部隊が国内に展開する前に適切な配置がなされなかった。

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ポーランド軍司令部の戦略的ミスは国境線を防衛するという政治的決断だけではなかった。ポーランドの戦前のプロパガンダでは、ドイツ軍のどのような侵略も速やかに撃退できるとされていたので、ドイツ軍に対する敗北は多くの市民にショックを与える結果となってしまった。市民はそのようなニュースに対する心の準備やそういった事態に対する訓練ができていなかったためパニックに陥り東へと避難し、混乱が広まり、兵士の士気も落ち、ポーランド兵の道路輸送も滞ることとなった。ポーランドのプロパガンダはポーランド軍自身にとってもまずい結果となった。通信手段が後方で活動するドイツ軍の機動的な部隊によって遮断され、避難する市民は道路を塞いだため、架空の勝利やその他の軍事行動を伝えるラジオや新聞からの不確実な情報によって連絡そのものが混乱に陥った。このためいくつものポーランド部隊は実際のところは敵に包囲されていても抵抗不可能だという見込みを信じず、部隊全体は反転攻勢をかけているとか、自軍が勝利を収めた地域から援軍が得られるという誤った判断をしていた。

2009年04月10日

クルムホルン

クルムホルン(英: crumhorn)は古い木管楽器のひとつである。ルネサンス期にはポピュラーな楽器であった。20世紀には、古楽への関心の復活とともに再びクルムホルンが演奏されるようになった。

その名前は「曲がったホルン(角笛)」を意味するドイツ語のKrumhorn (Krummhorn またはKrumphornとも綴られる)に由来する。 このKrumは「曲線」を意味する古英語のcrumpと関連があり、現代英語のcrumpled(ねじ曲がった)やcrumpet(丸いケーキ)に引き継がれている。

クルムホルンはリードがキャップで覆われた楽器である。その構造はバグパイプのチャンター(主唱管)に良く似ている。長い管の一方の端にある歌口のキャップの中に、ダブルリードが取り付けてあり、歌口のキャップに息を吹き込んで音を出す。音高は管に沿って開けられた指穴を開閉して変化させる。クルムホルンのもっとも特異な点はその形状である。端が上に向かって弧を描いて曲がっており、そのためにこの楽器はバナナのような形、よりひらたく言えばアルファベットのJの文字の形をしている。

クルムホルンは大きなビーという音を出す。音域は狭く、通常は長9度の範囲である。理論的にはリードをオーバーブロウすることによって基音より12度高い音を出すことが出来るが、リードを唇にくわえていないためにこれは非常に難しく、現実にはすべての演奏は基音の範囲で行われる。いくつかの大きな楽器では、指穴を追加したり、スライド
を設けたり、息の圧力を減じたりすることによって音域を下方に拡張することもある。現代のクルムホルンは、ふたつのキーによって音域を上方に拡張して11度としている。クルムホルンはクロス・フィンガリングによって、最低音の短2度上の音以外は半音階を演奏することが出来る。こうした音域の制限のために、クルムホルンの音楽は、異なる音域を持つ異なるサイズの楽器のグループによって演奏されることが一般的である。こうしたグループは、クルムホルン・コンソートと呼ばれている。クルムホルンはルネサンス期の他の多くの楽器と同様、声楽の四重唱の例にならってソプラノ・アルト・テナー・バスの4種で構成された。時折はさらに音域の高い、あるいは低い楽器も作られたが、上記の4種にくわえて長続きしたのはコントラバスのみであった。ルネサンス期の他の多くの木管楽器と同様、C管とF管の楽器がもっとも長く作られ続けた。

サイズ 音域(括弧内は現代のクルムホルン)
ソプラノ C4(中央ハ), D4?D5 (?F5)
アルト F3(中央ハの5度下), G3?F4 (?B4)
テナー C3(中央ハの1オクターブ下),D3?D4 (?F4)
バス F2(中央ハの1オクターブと5度下),G2?F3 (?B3)
コントラバス C2(中央ハの2オクターブ下),D2?D3 (?F3)

ヨハン・ヘルマン・シャインは、1617年の曲集『音楽の饗宴(Banchetto Musicale)』の中に、クルムホルンのための「4声のパドゥアーナ(padouana à 4)」を収録している。ミヒャエル・プレトリウスは自らのいくつかの宗教声楽曲の中で、トロンボーン、ダルシアンあるいはその他の楽器の代わりにクルムホルンを使用することも可能であると記している。アントニー・ホルボーンの作品のいくつかは、クルムホルンでの演奏に適している。

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2009年03月27日

KISekae Set system

KISekae Set system (着せ替えセットシステム、KISS)[1] とは当初仮想「紙人形」を作るために設計された、アートとコンピュータの融合である。コンピュータを通じて作成したり表示したりする伝統的なアートである「コンピュータグラフィックス」とは異なり、KISSはコンピュータをメディアとして使い、アニメーションするばかりでなく、双方向のアートを可能にする。

KISSはオープンスタンダードであり、何種類かのPDAを含むほとんどすべてのプラットフォームにある程度実装されてきた。JavaやWebページ[2]による実装も存在する。

KISSは1991年、少女漫画のキャラクターに基づく"人形"とともに日本で始まった。

最初の人形は互いの周囲や前後に重ねて動かすことができ、あたかも人形の画像が服を着ているように見える、単純で静的な画像の集まりだった。コンピュータグラフィックスを使うことにより、視覚的には離れた部品を含む複数のレイヤを同時に動かして物理的な紙では不可能な奥行きがあるように見せかけられるという点で、伝統的な紙人形より優れていた。

初期の表示ソフトウェアはPC-9800シリーズ向けに設計されており、16色のパレットで人形を表示していた。ほどなく、VGAビデオカードと256色や複数の16色パレットのサポートを含む、機能強化された標準 ('KISS/GS2'として知られるGeneral Specification 2[3]) が提唱された。この標準はまだKISSに基づいていたが、その後いくつかの追加仕様、とくに双方向性とアニメーションを制御する "French KISS" (通称fkiss[4]) と32ビットトゥルーカラーをサポートする "Cherry Kiss" (通称ckiss[5]) がビューアに組み込まれた。

1990年代後半に、KISSは日本のBBSコミュニティからインターネットを通して「人形」を作成するアーティスト、サポートツールを作成するプログラマ、そして世界中に現れたファンとともに国際的に広がった。

KISSセットはしばしば '人形' と一般に呼ばれるが、着せ替えとは限らないことに注意されたい。実際にはあらゆるものが可能であり、福笑い、ウェディングケーキ、ドールハウス、戦艦、そればかりかパズル、ゲーム、他にもたくさんのものが存在する。このような人形以外のセットを、英語圏では 「aberrant KiSS」(異常なKISS)と呼ぶことがある。

形式 [編集]
KISSセットはさまざまな異なった形式の、多数のファイルからなる。これらはLZH形式 (日本における推奨アーカイブ形式) で単独の「人形」として配布用にパッケージされる。ビューアプログラムはLZH形式から個々のファイルをまとめて取得できる。

ほとんどのファイルはアニメーションセルに似た生の未圧縮画像データ'セル'ファイルである。 KISS/GS2仕様のセルはKCF (KISSカラーファイル) もパレットとして必要とするが、ckiss仕様セルには必要ない。KCFは背景色の制御もでき、明るさと色を変化させる効果のために入れ替え可能な複数のパレットを含む。KISS/GS2以降のすべてのKISSバイナリファイル (KCF、標準セル、ckissセル) は共通の32バイトバイナリヘッダレコードを持ち、サイズ、種類、および含まれているKISSデータの形式を識別する。

フィールドサイズ、重ね合わせ、セルの位置、パレットの使用、そして対話的操作やアニメーションのイベントを制御するために設定ファイルも必要である。

加えて音楽用のMIDIファイルと効果音用のWAVファイルが使え、一般には何らかの形で作者がテキスト文書も含めている。

追加セット [編集]
KISSセットは「追加セット」と呼ばれる過程により、他のKISSセットからリソースを獲得することが許されている。これによりもとのセルを新しいセットに組み込むことなく、新しいバージョンの人形が作れるようになった。これは以前のバージョンを置き換える必要がなくなり、原作者が誰であるかの混乱を招くことなく異なる作者が人形にデータを追加できるということを意味する。この機能ははもっとも初期のビューアまでさかのぼれるが、追加セットの読み込みの詳細には多少ビューア依存の点が残っている。

拡張 [編集]
多数の機能がKISSに追加されてきたが、メインKISS形式へ公式に組み込まれたものは1つもない。互換性を維持するためと未サポートのビューアから隠すために、これらの機能は設定ファイル内でコメントに見せかけられてきた。各種の拡張は (ユーザーグルーピングを除き) まず日本で導入されたが、 (Cherry Kissを除き) すべて後に国際ビューアで拡張された。


French KISS [編集]
'French' KISS (もしくは'fkiss') はKISS/GS2仕様への実験的な追加機能として作成されたイベント駆動のスクリプト言語である。fkissはアニメーションとより優れた双方向性をKISSで可能にするため、日本で導入された。fkissは最初の拡張であり、テスト目的だけを意図していたが、そのまま有名になって固定化された。すべてのfkiss命令はその設定ファイル内の行で以下の文字列から始まる
";"は通常コメントの開始を示し、当初はビューアがfkissを処理しない場合に備えて処理指令を隠していたが、fkissは今やすべてのビューアで標準である。

fkiss自身も何度か拡張されてきた:

'FKiSS2'[6]は代替プラットフォーム用のビューアを作成している国際的なプログラマによって最初に実装された。FKiSS2では衝突の検出、相対移動、および単純な条件テストが追加された。このレベルのFKiSSは非常に古いものを除き、すべてのビューアでサポートされている。これは日本でサポートされた最後のレベルとなった。
'FKiSS3'[7]は変数、計算、および制御構造を追加し、より完全なスクリプト言語に近くなった。
'FKiSS4'[8]は、とくにユーザーグループ化のサポートによりFKiSSの能力を単純化して拡張したが、今までのところサポートしているビューアはほとんどない。

チャージ タラソ パント トレード 赤ランプ ヒョウ ナブラ ブルマナ スラト トムトム あしたば おれたち シュズ ルームメ カミオ シシュフ パナマ ダウン すだち ダイナ オカル チンギス リージア ネオジ つるが リニティ バップ オロシ かいづか あつま 石榴 ジエンド プレッ ラウンジ ドロップ ビクー ひらら ビノク シェーカー ラタトゥ 麦わら イキシア パッチ ウイロ 麦わら帽子 単発ガ ネイビー ライフ ムスリム ロベリア

2009年03月11日

レオン (ニカラグア)

レオン(León)は、中央アメリカの国ニカラグアの都市。スペインの植民地時代に認可された法的な正式名は「サンティアゴ・デ・ロス・カバジェロス・デ・レオン」 (Santiago de los Caballeros de León) だが、現在使われることは滅多にない。
サイコ チューブ イニシャ コムデ ティーチ カクレミノ ビヨウ クロの景色 シェード テスト プラコ ノーヒッタ チャンピ シンタ シンパシー ジストニア カオリン リール ハイラ ガーター バブリ アセロ ダガナ くしがき ヒロイズム マジック さじ日本 テスラコイ ナイトツア トリップ でぃるは パーゴラ あせろら ファルス オーバ オーソラ ネイリ ビルジ マッチ ライト トスト チっつぐ ジャカー 真実の泉 フレッシ ミゼット レーション ケルシ 無情 ブーツ

レオン県の県庁所在地で、2005年時点の人口は約14万5000人である。チキト川 (Río Chiquito) 沿いにあり、首都マナグアの北西約50マイル、太平洋岸の北約11マイルに位置している。マナグアに比べて知名度の点で劣るが、1813年に設立された大学とともに、国の知的な中心地であり続け、また工業と商業の面でも重要な拠点となっている。
ニカラグアにレオン市が最初に建造されたのは1524年のことだった。この年にフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバが現在の都市の20マイル東に建造したのである。旧レオンから2マイルしか離れていないモモトンボ (Momotombo) が1610年に噴火し、深刻な被害をもたらした。この後、住民たちは、更なる噴火によって人命や財産に再び甚大な被害が出るのを避けるため、現在の場所に町を移転させることを決めたのである。

新しい町はスブティアバ (Subtiava) と名付けられたアメリカ先住民の町になった。一方、放棄された旧レオン市街は1960年に発掘され、2000年にはユネスコの世界遺産に登録された。

現在のレオンに残る町並みは、スペイン・コロニアル様式の優れた例証である。そこには、1706年から1740年に建てられた聖母被昇天大聖堂も含まれる。この大聖堂には1746年から1779年にかけて、二本の塔が加えられた。

ニカラグアが1839年に中米連邦から脱退したとき、レオンはニカラグアの首都になった。それから数年の間、自由党の牙城でリベラルなレオンと、保守党の牙城で保守主義のグラナダとの間で遷都を繰り返したが、1858年に二つの町の中間点だったマナグアを恒久的な首都とする妥協が成立した。

1950年には人口は31000人を数えた。1956年9月21日には、ニカラグア大統領アナスタシオ・ソモサ・ガルシアがこの町で撃たれ、致命傷を負った。

伝統・伝説博物館 (El museo de tradiciones y leyendas) は、1979年のサンディニスタ革命までは悪名高い21番監獄 (XXI jail) として使われていた。町には、政治的な壁画なども見られる。

2009年02月23日

マレー語(マレーご、Bahasa Melayu, ジャウィ文字:???? ?????)

マレー語(マレーご、Bahasa Melayu, ジャウィ文字:???? ?????)は東南アジアのマレー半島周辺に分布するマレー人によって話されるオーストロネシア語族の言語である。
いしゅく モルゲン ソニック サシン プラウザー チャプ ノビル すいたい イルク トンブ じゅんさい エンジンシ テクニ クロス リーファ 青皮栗 きんし リターン ラリマール セリバシー ステンド トローク モーグル イヌツゲ リズム バスタブ スペース たまねぎ SEOハツ アオクサ ショット アップ オートモ ファイト リケッチア ぬく森 吾亦紅 ビリンビン ガロン ハナズオウ シェー シュピ へいどん ゲーター カレッジ レジデ カヌー マウンテン はなさか ハハコ

いわゆるマレー半島周辺地域で話される言語であるマレー語(bahasa Melayu、ムラユ語とも)。
マレーシアとシンガポールの国語としてのマレーシア語 (bahasa Malaysia) 。
(1)と(2)はほぼ同じものを指す場合が多いが、(1)が地域を基盤とした自然言語であるのに対し、(2)のように呼ぶ場合はより規範的な「国語」であることが強調される傾向にある。また(1)は広くインドネシア語やジャウィ語をも含む場合があり、またあるいはインドネシア語とマレーシア語との共通の基礎となった言語もマレー語と呼ばれる。

この記事では特に両者を区別せず、またインドネシア語やジャウィ語を含まない狭義のマレー語/マレーシア語を扱うことにする。

マレー語はオーストロネシア語族・西オーストロネシア語派に属する言語であり、マレーシア、シンガポールおよびブルネイの国語として話されている。また文法・語彙ともにインドネシア語と共通する部分が多く、言語学的には同一言語の中の方言である。両者の違いは植民地時代の宗主国の違いと、それによる借用語の来歴に多くを拠っている。一説には、両者の一致率は90%前後とされる。 また、同様に言語学的にはマレー語の方言として位置づけられる言語に、タイ南部のマレー系イスラム教徒の用いるヤーウィー語がある。

文字
通常、マレー語はローマン・アルファベット26文字で表記される。ただしこれはイギリス植民地時代からの伝統であり、それ以前はアラビア文字を元に作られたジャウィ文字が使われていた。マレーシア国内では今もジャウィ文字の存続を求める声があり、学校教育の場ではその学習が続けられている。この記事ではアルファベット表記を使用する。イスラム伝来以前には、デーヴァナーガリー文字から派生した文字が使われていたという。

発音
マレー語の発音は、日本語と同様の子音・母音が多く子音の連続が少ない。

母音
マレー語の母音は短母音が6種、加えて二重母音が3種ある。

a
i
e(曖昧母音)
e
u
o
ai
au
oi

子音

文法
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。

辞書
ここではこの言語の名称の問題には触れず、古くから研究者の間で知られる日本語対訳の辞書を出版の時代を限っていくつか紹介したい。

越智有(著)『馬日辞典』. 大正12(西暦1923)年. (台湾総督府内)南洋協会台湾支部発行.
宮武正道(著)『日馬小辞典』. 昭和13(西暦1938)年. 岡崎屋書店発行.
平岡閏三、ハヂー・ビン・ウォンチ(共著)『馬来―日本語字典』. 昭和15(西暦1940)年. (台湾総督府内)南洋協会台湾支部発行.
藤野可護(著)『模範馬日辞典』. 昭和16(西暦1941)年. (シンガポール)花屋商会.
武富正一(著)『馬来語大辞典』. 昭和17(西暦1942)年. 旺文社発行. 本辞典には机上版と縮刷版の2種類がある。
岡本泰雄(編)『東亜辞典』. 昭和18(皇紀2603. 西暦1943)年. (シンガポール)昭南本願寺日本語塾発行.
統治学盟(編)『標準 馬来語大辞典』. 昭和18(西暦1943)年. 博文館発行.
上原訓藏(著)『日馬新辞典』. 昭和19(西暦1944)年. 晴南社発行.
佐藤栄三郎(著)『インドネシヤ最新馬来語辞典』. 昭和19(西暦1944)年. 弘文社発行.

その他
南アフリカのオランダ語の変種アフリカーンス語にはマレー語の影響が残っている。

2009年02月06日

年代でいうと今から約16,500年前から

縄文時代(じょうもんじだい)は、年代でいうと今から約16,500年前から(暦年較正年代法による。従来の放射性炭素測定年代では約13,000年前から。)約3,000年前(紀元前10世紀)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。
ネオコ ダーリン ビザン じゅうも リューマ しゃかとう バウン シミュ クロレ スクウィ チンキキ バニリン ドレミ 喜びの泉 レプトン デニン プレス インビボ 太陽の記憶 スイーター スリーパー タイア レジャ リアシ リッター パール ブース ミクロ シネマイ ハーフ ブラック ゼニア シャンペン ひだまり ユーラ オービ キシロ みそぎ パドバ 太秋柿 ガールフ カーボン ケルベ ステゴドン プロト セラピー ショーウ サーチリス ラフト ラゲージ

暦年較正年代法とは、従来の放射性炭素測定年代は空気中の放射性炭素の濃度が一定であったという仮説にたっていたが、揺れが生じることが明らかになり、測定値を補正した年代のこと。
沖縄県では貝塚時代前期に区分される。地域によって生業戦略は異なるものの、豊かな自然環境の恩恵に最適化しつつ、植物質の食料戦略を成功させ、狩猟採集を基調とした社会でありながら、造形的で多様性と象徴性に富んだ土器文化を発達させた。

遺跡数や土器型式の多様性からみて、縄文文化は東日本の方で、より繁栄していた傾向がある。これは森林の生産性とも関係すると考えられる。

較正炭素年代によれば、最古の土器は16,000年程前に遡る[1]が、ヤンガードリアス期を経て、完新世以降になると土器の型式は多様化し、典型的な縄文文化が発達した。

縄文時代の終りについては、地域差が大きいものの、定型的な水田耕作を特徴とする弥生文化の登場を契機とし、その年代については紀元前数世紀代から紀元前10世紀代まで、議論がある。なお、縄文時代の次の時代は、沖縄県では貝塚時代後期、東北北部から北海道では続縄文時代と呼ばれる。

「縄文」という名称は、エドワード・S・モース(Edward S.Morse 1838-1925)が1877年(明治10)大森貝塚から発掘した土器を Cord Marked Pottery と報告したことに由来する。この用語は谷田部良吉により「索紋土器」(さくもんどき)と訳されたが、後に白井光太郎が「縄紋土器」と改めた。そして、「縄文土器」へと続いてきた。「縄文時代」に落ち着くのは戦後のことである。

縄文土器(縄の文様がついている。)
時期区分
縄文土器の多様性は、時代差や地域差を識別する基準として極めて有効である。土器型式上の区分から、縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられる。研究当初は、前・中・後の三期区分だったが、資料の増加や研究の進展によって早期、晩期が加わり、最後に草創期が加えられた。そうした土器研究上の経緯を反映した時期区分であるため、中期が縄文時代の中頃というわけでもなく、生業や文化内容から見た時代区分としても再考の余地があるものの、慣用化した時期区分として定着している。 縄文時代の人々は、竪穴式住居に住み、弓矢での狩猟、貝塚に見られる漁労、植物の採集と調理、後には栽培など、多様な手段で糧を得た。保存と煮炊きに縄文式土器を用い、様々な用途に打製石器・磨製石器と骨角器をあて、丸木舟を用いた。人々の交流は広い範囲にわたり、時には環状石籬(環状列石)、巨木工事のような大事業を起こした。

縄文人は、旧石器人を基調としつつ、旧石器時代末期に細石器文化を持って北方から日本列島に渡来した原モンゴロイドや南海から渡来したオーストロネシア語族、さらに中国の長江下流域から照葉樹林文化を携えて渡来した集団など幾派もの移住が重層して形成されたと考えられる。

また先に示した土器編年による区分の他、縄文時代を文化形式の側面から見て幾つかの時期に分類する方法も存在している。縄文時代の文化史的区分については研究者によって幾つかの方法があり、現在のところ学界に定説が確立されているわけではない。

佐々木高明による区分
文化人類学者の佐々木は縄文土器編年区分のうち草創期を旧石器時代から新石器時代への移行期として縄文?期、土器編年の縄文早期を縄文文化が完成に向かう時期として縄文?期、土器編年の縄文前期から晩期までを完成した縄文文化が保持された時期として縄文?期に分類した[2]。
泉拓良による区分
泉も佐々木による区分に近く、縄文草創期を「模索期」、縄文早期を「実験期」、縄文前期から晩期までを「安定期」としている。

旧石器から縄文へ
寒冷な気候の再来したヤンガードリアス期までが、ほぼ草創期に相当し、すぐに温暖化に向かい、早期を迎えることになる。(→晩氷期)
この期の特徴の一つは、「有舌尖頭器」(有茎尖頭器)といった、新しい道具が短期間に数多く出現したが、短期間のうちに消滅したことである。また、この期の前半は、遺跡によって出土する石器群の種類が違っている。それらのことは、急激な気候の変化に伴う厳しい環境の変化に、列島の旧石器人が対応し、適応していったことの証拠である。

急激な環境の変化に伴って、森林も落葉広葉樹と照葉樹へと遷ってゆき、動物相も変化した。(→シカやイノシシ)温暖化は、また、海水面を上昇させ、海が陸地に進入してきて、各地の沿岸に遠浅の砂泥質の入り江が作り出された。(→海進)このような環境が、貝類の棲息、魚類の産卵・餌場の格好の場所となった。(→貝塚)

このような環境に対応した道具を開発し、技術を確立した草創期こそ、旧石器時代から縄文時代への移行期であり、縄文文化を成立させるための準備期間であったと考えられている。この期の遺跡から、竪穴住居跡や新しく生活用具として開発された植物質食料の製粉具の石皿と磨石(すりいし)が発見されている。旧石器時代の採集・狩猟を中心とした活動から植物採集・初歩的農業?狩猟・漁労活動へと飛躍的に生活を発展させた時期でもあった。
気候と自然環境
この時代を通じて温暖な気候が続いていたと考えられる。

北海道を除いて列島の大部分が落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われた。このように、温暖化による植生の変化は、大型ほ乳動物(マンモスやトナカイ、ナウマンゾウやオオツノシカ)の生息環境に適せず、日本列島からほぼ全滅してしまう。

海面の高さは、現在より2?3メートル高く、日本列島の周りには平地が余り見られなかった。

縄文文化の歴史的変遷

気候の変化と縄文文化の発展
縄文時代は1万年という長い期間に渡った為、大規模な気候変動も経験している。また日本列島は南北に極めて長く、地形も変化に富んでいる為、現在と同じように縄文時代においても気候や植生の地域差は大きかった。結果として、縄文時代の文化形式は歴史的にも地域的にも一様ではなく、多様な形式を持つものとなった[3]。

最後の氷河期が終わってから紀元前4000年頃までは、地球の気温は徐々に温暖化していった時期である。縄文土器編年区分においてはこれは縄文草創期から縄文前期に相当する。この間に日本列島は100メートル以上もの海面上昇を経験しており、今日では縄文海進と呼ばれている。

縄文草創期当時の日本列島の植生は冷涼で乾燥した草原が中心であったが、落葉樹の森林も一部で出現していた。また地学的に見ても、北海道とサハリンは繋がっていたし、津軽海峡は冬には結氷して北海道と現在の本州が繋がっていた。瀬戸内海はまだ存在しておらず、本州、四国、九州、種子島、屋久島、対馬列島は一つの大きな島となっていた。この大きな島と朝鮮半島の間は幅15キロメートル程度の水路であった。その後、温暖化により海面が上昇した結果、先に述べた対馬・朝鮮半島間の水路の幅が広がって朝鮮海峡となり、対馬暖流が日本海に流れ込むこととなった。これにより日本列島の日本海側に豪雪地帯が出現し、その豊富な雪解け水によって日本海側にはブナなどの森林が形成されるようになった。

縄文早期には定住集落が登場した他、本格的な漁業の開始、関東における外洋航行の開始など新たな文化要素が付け加わった。最も古い定住集落が発見されているのが九州南部で、およそ11000年前に季節的な定住が始まり、10000年ほど前に通年の定住も開始されたと推測されている。定住が開始された理由としては、それまで縄文人集団が定住を避けていた理由、すなわち食料の確保や廃棄物問題、死生観上の要請などが定住によっても解決出来るようになったためではないかと見られる[4]。この時期の土器は北東アジア系、華北・華中系[5]、華南系[6]の3系統に分けられており、分布面から見ると北東アジア系は北海道から東日本に、華北・華中系は西日本、華南系は南日本から出土している。植生面から見ると、縄文早期前半は照葉樹林帯は九州や四国の沿岸部および関東以西の太平洋沿岸部に限られており、それ以外の地域では落葉樹が優勢であった。

縄文前期から中期にかけては最も典型的な縄文文化が栄えた時期であり、現在は三内丸山遺跡と呼ばれる場所に起居した縄文人たちが保持していたのも、主にこの時期の文化形式である。この時期には日本列島に大きく分けて九つの文化圏が成立していたと考えられている(後述)。海水面は縄文前期の中頃には現在より3メートルほど高くなり、気候も現在よりなお温暖であった。この時期のいわゆる縄文海進によって沿岸部には好漁場が増え、海産物の入手も容易になったと林謙作は指摘している。植生面では関ヶ原より西は概ね照葉樹林帯となった。

縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、食料生産も低下する。その結果、縄文人の人口も停滞あるいは減少に転じる。関東では貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていくこととなった。一方、西日本や東北では低湿地が増加した為、低湿地に適した文化形式が発達していった。中部や関東では主に取れる堅果類がクリからトチノキに急激に変化した。その他にも、青森県の亀ケ丘遺跡では花粉の分析により、トチノキからソバへと栽培の中心が変化したことが明らかになっている。 文化圏は九つから四つに集約される。この四つの文化圏の枠組みは弥生時代にも引き継がれることとなる。

縄文文化の地域性
縄文文化は日本列島のどの地域でも同質のものだったのではなく、多様な地域性を備えた文化群であったことが指摘されている。

土偶の分布に見る地域性
縄文人が製作した土偶は、縄文時代の全期間を通して日本列島各地で満遍なく使われていたのではなく、時期と地域の両面で限定されたものであった。すなわち、縄文早期の更に前半期に関東地方の東部で集中的に使用された後、縄文中期に土偶の使用は一旦消滅している。その後、縄文後期の前半に東日本で再び土偶が使用されるようになる。一方、それまで土偶の使用が見られなかった九州においては、縄文後期になって九州北部および中部で土偶が登場している。

こうした土偶の使用の地域性について藤尾は、ブナ、ナラ、クリ、トチノキなどの落葉性堅果類を主食とした地域(つまりこれら落葉樹林に覆われていた地域)と、西日本を中心とした照葉樹林帯との生業形態の差異と関連づけて説明している。落葉性堅果類、いわゆるドングリや栗は秋の一時期に集中的に収穫される為、比較的大きな集落による労働集約的な作業が必要となる為、土偶を用いた祭祀を行うことで社会集団を統合していたのではないかという考え方である。[7]

縄文時代の文化圏
前述のように、縄文前期には日本列島内に九つの文化圏が成立していたと考えられている。すなわち、

「石狩低地以東の北海道/アイヌモシリ」
エゾマツやトドマツといった針葉樹が優勢な地域。トチノキやクリが分布していない点も他地域との大きな違いである。トド、アザラシ、オットセイという寒流系の海獣が豊富であり、それらを捕獲する為の回転式離頭銛が発達した。
「北海道/アイヌモシリ西南部および東北北部」
石狩低地以東と異なり、植生が落葉樹林帯である。ミズナラ、コナラ、クルミ、クリ、トチノキといった堅果類の採集が盛んに行われた。回転式離頭銛による海獣捕獲も行われたが、カモシカやイノシシなどの陸上のほ乳類の狩猟も行った点に、石狩以東との違いがある。
「東北南部」
動物性の食料としては陸上のシカ、イノシシ、海からはカツオ、マグロ、サメ、イルカを主に利用した。前2者とは異なり、この文化圏の沖合は暖流が優越する為、寒流系の海獣狩猟は行われなかった。
「関東」
照葉樹林帯の植物性食料と内湾性の漁労がこの文化圏の特徴で、特に貝塚については日本列島全体の貝塚のうちおよそ6割がこの文化圏のものである。陸上の動物性食料としてはシカとイノシシが中心。海からはハマグリ、アサリを採取した他、スズキやクロダイも多く食した。これらの海産物は内湾で捕獲されるものであり、土器を錘とした網による漁業を行っていた。
「北陸」
シカ、イノシシ、ツキノワグマが主な狩猟対象であった。植生は落葉広葉樹(トチノキ、ナラ)で、豪雪地帯である為に家屋は大型化した。
「東海・甲信」
狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹であるが、ヤマノイモやユリネなども食用とした。打製石斧の使用も特徴の一つである。
「加賀・能登・越前・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後」
狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹に照葉樹(シイ、カシ)も加わる。漁業面では切目石錘(石を加工して作った網用の錘)の使用が特徴であるが、これは関東の土器片による錘の技術が伝播して出現したと考えられている。
「九州(豊前・豊後を除く)」
狩猟対象はシカとイノシシ。植生は照葉樹林帯。最大の特徴は九州島と韓半島の間に広がる多島海を舞台とした外洋性の漁労活動で、西北九州型結合釣り針や石鋸が特徴的な漁具である。結合釣り針とは複数の部材を縛り合わせた大型の釣り針で、同じ発想のものは古代ポリネシアでも用いられていたが、この文化圏のそれは韓半島東岸のオサンリ型結合釣り針と一部分布域が重なっている。
九州南部は縄文早期末に喜界カルデラの大噴火があった為、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けた。
「トカラ列島以南」
植生は照葉樹林帯である。動物性タンパク質としてはウミガメやジュゴンを食用とする。珊瑚礁内での漁労も特徴であり、漁具としてはシャコ貝やタカラガイなどの貝殻を網漁の錘に用いた。九州文化圏との交流もあった。
の九つである[8]。

これら九つの文化圏の間の関係であるが、縄文文化という一つの文化圏内での差異というよりは、「発展の方向を同じくする別個の地域文化」と見るべきであるとの渡辺誠による指摘がある。つまり、これら全ての文化圏のいずれもが共通の、しかし細部が若干異なる文化要素のセットを保持していたのではなく、それぞれの文化圏が地域ごとの環境条件に適合した幾つかの文化要素を選択保持しており、ある文化圏には存在したが別の文化圏には存在しなかった文化要素も当然ながら見られるのである。

縄文後期に入ると、これら九つの文化圏のうち「北海道/アイヌモシリ西南部および東北北部」「東北南部」「関東」「北陸」「東海・甲信」の五つがまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における「ナラ林文化」)を構成するようになり、また「加賀・能登・越前・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後」「九州(豊前・豊後を除く)」がまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における照葉樹林文化)を構成するようになる。その結果、縄文後期・晩期には文化圏の数は四つに減少する。

2009年01月22日

纏足(てんそく)

纏足(てんそく)とは、幼児期より足に布を巻かせ、足が大きくならないようにするという、かつて中国で女性に対して行われていた風習をいう。より具体的には、足の親指以外の指を足の裏側へ折り曲げ、布で強く縛ることで足の整形を行うことを指す。纏足の習慣は唐の末期に始まった。清国の時代には不衛生であることから皇帝が度々禁止令を発したが、既に浸透した文化であったために効果は無かった。辛亥革命以降急速に行われなくなった。

中国大陸からの移住者が多くすんでいた台湾でも纏足は行われていたが、日本統治時代初期に台湾総督府が辮髪・アヘンとならぶ台湾の悪習であると位置づけ、追放運動を行ったため廃れた。なお、客家人の女性は働くことが奨励されていたため纏足をせず、「大足女」と揶揄されていた。
フィーバー プレイン ニソガラ てっさく ヒット ロイター 花いちもん スダコタ まんば 甘露国内 ダウト 茜色の約束 イコン デジポ 田園列車 ライプチヒ スキャ ジンビター ププス セレナーデ チガヤ ジャスト ドライカ サンカ デッド 場春夢 スーパー カジスカ ピアサポト マンボウ モンド クロミッド タロミクス せっせっせ レーン ナイト いまさく リース あずきいろ カートリ チューハ レビュ フィン ふすまえ シャブシ カーソル ベロニカ キャリ バビロニ キャラ

纏足文化ができた原因は、小さい足の女性の方が美しいと考えられたからである。小さく美しく施された靴を纏足の女性に履かせ、その美しさや歩き方などの仕草を楽しんだようである。纏足の女性はうまく歩けないことから、女性支配の手段にもなっていたと考えられる。また、バランスをとるために、内股の筋肉が発達するため、女性の局部の筋肉も発達すると考えられていた。 このようなことから、蒙昧な時代には纏足を施していない女には嫁の貰い手がなかったという。

纏足の歴史と施工方法など
一説では南斉から纏足が行われたとも言われているが、一般には南唐の李煜が足の細い女性を好んだことから始まったとする説も有力である。その南唐を滅ぼし、一応の全国統一を果たした北宋以降、徐々に普及が始まった。元末明初に記された、『輟耕録』(てっこうろく)の巻12に、「如煕寧元豊以前人猶為者少近年即人人相効以下為者為恥也」(訳:「煕寧(きねい、北宋、神宗の年号で、1068年?1077年)、元豊(げんぽう、同じく北宋、神宗の年号で、1078年 - 1085年)以前は少なかったが、近年は人人相ならい、そうでないのを恥とする」)と書かれている。その他の資料や、アラブ人や西洋人の見聞録などから、北宋より流行しだし、元末明初に盛んになったようである。流行しだした頃は、漢民族にとっては異民族の侵入などで国粋的な儒教が発達した時期でもあった。北宋の后が始めたとの説があるが、華南よりは華北によりその傾向があり、次第に農村部にまで拡大したようである。少数民族や女真族(満州族)にはその傾向がなかったものの、まれに見られた。

女真族(満州族)の建てた清朝が纏足禁止令を出しても止めようがなく、結局、北清事変以後の近代国家への動きの中で反対運動が起こり、まずは都市部で罰則との関係で下火になった。しかし隠れて行われ、中国全土で見られなくなるのは第二次世界大戦後のこととなる。最終的に絶えた理由として文化大革命で反革命的行為と見なされたこともある。このため、現在でも70歳以上の老人に一部見受けられる。

女の子が3 - 4歳になると木綿の布で足を縛り、発達を抑えるようになる。発熱するため、施術は秋に行われるのが多かった。親指を除く4本の指は内側に曲がり夜も寝られないほどの苦痛を伴いながらも、縛りなおすときを除き、ほとんど縛りっぱなしで決して親はそれを緩めようとはせず、足のサイズは10cm前後が金蓮と呼ばれた。第1段階では親指以外の4本の指を内側に曲げ、第2段階で、足の甲を前に伸ばさず縦に曲げていく。約2年かけるので、足のやわらかい幼少の頃に変形させるのである。その後も、縛り続け、3日に1度消毒することなどが生涯にわたって行われ、その形状はハイヒールによく似た形となった。

纏足の流行の理由には、足の小さいのが女性の魅力、女性美、との考えがあったことは間違いない。足が小さければ走ることは困難となり、そこに女性の弱弱しさが求められたこと、それにより貴族階級では女性を外に出られない状況を作り貞節を維持しやすくしたこと、足が小さいがために踏ん張らなければならず、そこに足の魅力を性的に感じさせやすくした…など多くのことが考えられる。しかし、いずれも決定的にこれと言えるほどの理由ではなく、やはり習慣の一つとして続けられていたと言えよう。

纏足で走行不能となったことで、災害時には男性より死亡率が高かった。また早めに夫をなくし困難の中で子育てに励む母親の苦労は大変なものだったという。現在、ムスリムにおいては、死後神の世界に戻るに当たっては人間本来の形に戻ることが必要なため、鉄で骨を元の形に戻すことが行われているようである。

西洋の足
纏足ほど極端なものではないが、ヨーロッパでも、大きな足は労働者階級のものという認識があり、貴族階級では小さな足が好まれた。特に17世紀、ヨーロッパでバレエが流行・定着して以降は、きついバレエシューズによって小さくなった足は、貴族の証となっていく。人によっては、冷水に足を付けて小さい靴に無理矢理足を入れていた。

2009年01月15日

メチレンジオキシメタンフェタミン


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3,4-メチレンジオキシメタンフェタミン (3,4-methylenedioxymethamphetamine) は、合成麻薬の一種。略称として MDMA、他に エクスタシー (EcstasyまたはXTC) という通称を持つ。なおエクスタシーは、錠剤型麻薬の通称としても使われる。心理学者のラルフ・メッツナーがMDMAに対してエンパソーゲン(empathogen、共感をもたらす)という言葉を作った[1]。 またエンタクトゲン(entactogen、内面のつながりをもたらす)と呼ばれ分類されている[2]。

類似の薬物として MDA(3,4-メチレンジオキシアンフェタミン)、MDEA(3,4-メチレンジオキシ-N-エチルアンフェタミン)なども知られ、MDMA と同様にエンパソーゲンないしエンタクトゲンへ分類される。

本文では両者の混同を避けるため、「MDMA」と「錠剤型麻薬」に分けて表記する。

常温では白色の結晶または粉末。分子構造はメタンフェタミンに類似し、メタンフェタミンのフェニル基の一部を置換したものと同一である。このためMDMAもメタンフェタミンと同じく光学異性体を持つ。

MDMAはその分子構造からしばしば覚醒剤に分類されるが、他の覚醒剤とされる薬物とは主だった作用機序が異なる。また、特有の精神作用により幻覚剤にも分類されるが、この「幻覚」は多幸感や他者との共有感などといった幻覚体験を指すもので、主作用として幻視や幻聴(一般に言う幻覚)を伴うことは稀である。

生理的作用
MDMAは脳内のセロトニンを過剰に放出することにより、人間の精神に多幸感、他者との共有感などの変化をもたらすとされる。MDMAを経口的に摂取すると30分?1時間ほどで前述のような精神変容が起こり、それが4?6時間程度持続するとされる。

濫用と医療用途
MDMAは1985年まで主にアメリカにおいて心的外傷後ストレス障害(PTSD)の治療に用いられてきた。PTSDは患者が自身に起きたトラウマ体験を自己の記憶として受容できないことによる疾患だとされているが、MDMAを摂取した状態でカウンセリングを行うことにより、通常の精神状態では許容しがたいトラウマ体験を想起させ、自己に起きた事実であることを受け入れることによって疾患が軽減もしくは治癒するという理論に基づいたものである。

しかしMDMAはレクリエーション・ドラッグ(Recreational Drug)としての側面も持ち、濫用が社会問題化したことを受け米国司法省麻薬取締局はMDMAを規制物質法におけるスケジュールI、すなわち濫用性が高く医療用途の見込みのない違法薬物に指定した。現在ではほとんどの国でMDMAは違法薬物とされている。以降MDMAはレクリエーション・ドラッグとして違法に濫用され続け今日に至るが、依然としてPTSDへの有用性を主張する声も根強く、2001年にはアメリカ食品医薬品局(FDA)が、2004年にはDEAがPTSD患者へのMDMAの治験を認める措置が取られることとなった。しかし依然としてMDMAが濫用性の高い薬物であることには変わりなく、安全性や依存性の検証、濫用防止などクリアしなければならない問題点は多い。

「エクスタシー」は本来MDMAを指す隠語である。しかしMDMAは錠剤の形を取って流通する場合が多いため、単に(MDMAを含むと期待される)錠剤型麻薬を総じてエクスタシーと呼ぶことも多い。錠剤型麻薬としては他にも「X」、「E」、「アダム」など多数の俗称を持ち、また日本では、丸い錠剤が多いことから「玉(たま)」、また「X」から転じて「バツ」、「ペケ」の俗称をも持つ。

一般に錠剤型麻薬は違法に製造されるため、MDMA以外の薬物である可能性、また他の成分が混入されている可能性、有害な不純物が残留している可能性などが非常に高く、MDMAの効用を高めるために意図的に他の薬物を混入することも少なくない。したがって単体としてのMDMAの安全性と錠剤型麻薬の安全性は別個のものとして考えなければならない。

近年、錠剤型麻薬の押収量は増加の一途を辿っており、世界中で深刻な社会問題となっている。

歴史
1912年、ドイツの化学メーカー、メルク社が、食欲抑制剤として始めて合成し、製法特許を取得した(製品化はされなかった)。

1967年にアメリカ軍による機密扱いが解けたことから化学文献への記載が始まり、1970年代から1980年代初頭までは精神科医の間で、PTSDの治療などに頻用された。

1978年に、ダウ・ケミカル社の化学者だったアレクサンダー・シュルギン(Alexander Shulgin)らによる著作『幻覚剤の薬学』が出版され、レクリエーション・ドラッグとして爆発的な拡大が始まった。

1985年6月、米国司法省麻薬取締局 (DEA) がエクスタシーを非合法とした。現在ではアメリカで最も広く用いられる四大麻薬のひとつとされる(他の3つは、コカイン、ヘロイン、大麻)。

そのダンス音楽との親近性により、1980年代後半からイギリスなどを中心に起こったセカンド・サマー・オブ・ラブブームやレイブの代名詞として爆発的に普及し、それ以降現在に至るまでクラバーの間でもっともポピュラーなドラッグである。欧州では近年では価格の低下により若年層への普及が懸念されている。

日本では、麻薬及び向精神薬取締法によって規制されている。